最近毎日のように、ニュースとして報道される子供の自殺、いじめ、家族間による殺人、ドメスティック・バイオレンス、不登校、ニート等、家族・子供に関わる様々な問題がクローズアップされています。
安倍内閣においても、美しい日本、教育の再生が大きなテーマとなっています。特に子供の自殺・いじめの問題は、いじめた当事者よりもその担任の教師、校長先生、教育委員会の対応の不備を指摘し、ワイドショー的に犯人探しをしているようです。
しかし、いじめ等によって自殺をした両親からすれば、そのやり場のない悲しみ、悔しさを教師・学校にぶつけてみたところで、心の片隅では、どうして親である私が“子供の変化”に気づいてあげられなかったのかという、自責の念にさいなまれているのではないでしょうか。
“子供の変化”に気づくには、家族・親子の良好なコミュニケーションが前提となることに反論の余地はありません。しかし、“サザエさん”や“ちびまる子ちゃん”の家族の環境が今の日本に存在するのはレアケースです。
年功序列がなくなり、能力の市場評価によって給料が決まる社会においては、父親は夜遅くまで残業、夫婦共働き、少子化の傾向、子供は塾通い、まさに“すれちがい家族”です。
夕食を茶の間で家族そろって食べることが殆どなく、同じ家に就寝することだけが家族関係を確認できる唯一の証であるという、“家族のコミュニケーション”にとっては最悪の環境といえます。
戦後、特に団塊世代の人達の青春時代、アメリカ文化が日本を席巻しました。音楽、映画、テレビドラマ、ライフスタイルに至るまで、そのアメリカの豊かさに圧倒され、盲目的に様々なものを取り入れました。
特に映画やテレビドラマに映し出される住まい、電化製品、自家用車はあこがれの対象となりました。
アメリカ・シアトルの街並み
あこがれのアメリカのマイホーム では、子供が小さな頃から個室が与えられます。一方、我家を振り返ると、個室を呼べるものはなく、親子、兄弟が雑魚寝をする生活。そのギャップとあこがれは相当なものであったと思われます。
団塊の世代にとってのマイホームは、日本の高度成長も手伝って、モーレツに働けば実現できることになりました。自分の子供の頃には与えられなかった個室を、我が子に与えることが父親の大きな役割であるかのごとく、又当時のマイホームを表現する大発明である3DK、4LDK等といった個室の数を一つの豊かな生活の指標として、庭付一戸建を購入することが人生の大きな目標となりました。
高度経済成長期の
中流家庭のマイホーム
関西の住宅地
1999.03
■日本建築学会近畿支部
住宅部会編より